火気厳禁のハングル畑でつかまえて

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半地下のオタクがK-POPを語るブログ

20190719/ポストモダン・アイドル論―『moEmotion』から見るアイドル写真の現在―

はじめに

この文章では、声優・アイドルである豊田萌絵の写真集『moRe』『もえねこ。』『moEmotion』及び本人によるそれらへの言及を元に、アイドルシーンにおける写真表現の機能、またアイドルのイメージ形成について分析しつつ、現在のアイドルの消費について考察する。本稿で主に例として取り上げる豊田萌絵は、1995年生まれの声優である。2012年に現在も所属する事務所スタイルキューブに入所。StylipSでの活動を経て、伊藤美来と共にアイドルユニットPyxisとしてデビュー、現在も活動を続けている。

彼女はアイドルファンを公言しており、アイドルについて語るラジオ番組を持つほどであるが、第1章では彼女のバックボーンであるゼロ年代から現在にかけての日本のアイドルシーンについて概観し、第2章ではそんな彼女のキャリアとパーソナリティ、そして三冊の写真集から、アイドルと表象の関係について、またポストモダン的状況におけるアイドル消費の在り方について考察する。

第1章 ゼロ年代のアイドルシーン

この章では、2000年代から現在までのアイドルシーンを概観し、豊田を含む2010年代のアイドルが持つ特徴について見ていく。ここで取り扱うのは主に女性アイドル、また女性アイドルをテーマにしたアニメーション作品である。

前史としてのアイドルシーン

本稿の主題に入る前に、少しゼロ年代以前のアイドルシーンについても触れておきたい。アイドルという言葉がメディアで使われ始めたのは年、昭和年のことであった。

秋元康がプロデュースするおニャン子クラブは、若手歌手や女優志望の若手タレントがアイドルとしてデビューする当時の状況に対して、最初から「アイドル」としてメディアに登場させるというカウンター的な戦略で人気を博した。

その頃のアイドルシーンを象徴する出来事が岡田有希子自死である。詳しくは後述するが、アイドルという存在を巡る議論が起こるようになったのがこの時期である。

2000~2009

AKB48℃-uteがデビュー、そしてアイドルマスターシリーズの第一作がリリースされた2005年は、アイドル史の中で大きな意味を持つ年だと言える。AKBグループは前述のおニャン子クラブを手がけた秋元康がプロデュースを担当、握手会を定期的に開催し、「会いに行けるアイドル」として話題を呼んだ。こうした「アイドル=ファンからは遠い存在」という既存の認識を脱臼させる発想は、おニャン子クラブと同質なものだと言えよう。

またアイドルマスターシリーズは、現在も続くメディアミックスコンテンツである。プレイヤーが芸能プロダクションのプロデューサーとして、キャラクター達を導きアイドルとして成功させる、というゲームなのだが、キャラクターの設定は実在するアイドルの要素を複数組み合わせたようなものであったり、様々な職業からアイドルに転職してきたという設定などがあり、アイドルの表象的な側面を上手く利用したコンテンツであると言えよう。

こうした大きなコンテンツの盛り上がりもあり、アイドルという存在がより一般的になっていくのがゼロ年代前半の流れであった。

2010~2019

乃木坂46を筆頭に執筆現在3グループが活動している坂道シリーズの歴史は、2011年の乃木坂46デビューから始まる。2015年に鳥居坂46オーディションが開催、この時選抜されたメンバーが欅坂46として同年デビュー。長濱ねるのオーディション辞退から逆転合格、という変則的な事例を鑑み、別グループとしてひらがなけやきを設立、長濱は漢字/ひらがな兼任の措置を受ける。2016年に1期生として11名が加入。2018年末にこの3グループ合同でのオーディションを行い、それぞれのグループに4期生、2期生、ひらがなけやきは日向坂46に改名し1人が加入。坂道シリーズの特徴はメンバーそれぞれがモデルや女優、バラエティ番組出演などいわゆる「外仕事」に積極的であり、歌やダンスだけでないメディア露出に積極的なところである。

また2010年代には二度の韓流ブームが来たことにも触れておかなければならない。第二次韓流ブームの始まりと言われる2010年には少女時代、KARAが日本デビュー、翌年には両グループと東方神起NHK紅白歌合戦に出場を果たした。このブームは2012年の竹島問題の激化によって終焉を迎えるが、上記のグループらが日本だけでなく国際的に活動したことによって残した影響は大きい。

日本における第三次韓流ブームの開始に関しては定まった説がないが、ここではTWICE『TT』がリリースされた2016年とする。この曲のダンスをコピーするのがSNSを中心に流行し、その流れが日本にも波及した。2017年には同グループが紅白歌合戦に出場した。2018年には日韓合同プロジェクトから生まれたIZ*ONEがデビュー。K-POP人気は依然として続いている。

豊田の生年は1995年なので、小学校高学年に差し掛かる頃にAKB48℃-uteがデビュー、中高生の頃に乃木坂のデビューと第二次韓流ブームがあった。筆者は彼女と同世代の男であるが、当時を振り返るとすぐに流行っていた曲とそのプロモーション映像が思い浮かぶし、正に「見ない日はない」というくらいに様々なアイドルがメディアに登場していた。 2010年以降デビューした彼女や他のアイドルがこういった状況から影響を受けていることは想像に難くない。

2010年以降のアイドルシーンにおいて特異な点は、アイドルがそのメディアにおける役割や構造について自覚的で、批評的な振る舞いをするようになった点だろう。これは後述する80年代のアイドルシーンとは真逆の特徴だと言える。つまり、身体が与えられた記号に隷属していた時代は終わり、身体と記号が対等に置かれ、むしろ自らの表象を自らで操作するアイドルが登場してきたということが、2010年代以降のアイドルシーンの特徴である。

第2章 変容する「アイドルシステム」とシミュレーショニズム

この章では、前章で見たアイドル像の変貌に対して、80年代アイドルを論じた批評や評論を参照しつつ、現在のアイドルシーンの根底にある思想や精神について考察していく。

「アイドルシステム」とフェミニズム

先にも引用した大塚英志は、『「おたく」の精神史 一九八○年代論』の中で、アイドルに関する言説の中のシミュレーショニズムについてこう語っている。

 

「新人類たち(筆者注:引用部の前で引用されている中森明夫田口賢司野々村文宏)が菊池桃子を否定するのは、彼女が受け手に性欲を喚起させるアイドルだからだという。それは彼らのシミュレーショニズムに反するからである。」[1] 

 

「つまり、シミュレーションとしてのアイドル論は、常にそれを演じる身体に稲増龍夫いうところの「アイドルシステム」を通じて彼女たちに具体的に作用していく。生身の身体を持ちながら彼女たちは情報としての身体を求められる。それがアイドルを産出し、流通し、消費する資本主義の枠組みの中で行われる時、それは確実に抑圧となる。しかもすでに見たように、そこには女性たちに自分好みの女になれ、と求めるふるまいが所与のものとして存在する。」[2]

 

大塚は80年代のアイドルシーンを巡る言説に、女性の身体性を排除する男性目線の欲望を見出し、なおかつアイドル自身もそのような欲望に自らを当て込めていくという共犯関係があると指摘した。その端的な例が先に挙げた岡田有希子自死である。

しかしこれは勿論80年代についての議論であり、現在の状況は大きく異なっていると言わざるを得ない。

先に見てきたように、ゼロ年代、特に2010年代以降にデビューしたアイドル達は男性性の欲望するシミュレーションに乗せられたアイドルをいち消費者として享受し、自らをシミュレーションしていく。そこにあるのは抑圧ではなく、自己実現ではないだろうか。

女性から女性アイドルに向かう視線について、ああなりたいという憧れ、羨望、といった言葉を当てはめるのは簡単だ。しかしその視線の向かう先であるアイドルが、前述のような抑圧の構造を持っていることを鑑みると、この問題は「アイドルにおける男性性の内面化」という壁にぶち当たる。

再度『「おたく」の精神史』を参照したい。女性アイドルと男性ファンの共犯関係の上で成り立つシミュレーションによって引き起こされた悲劇として岡田有希子自死があるとし、大塚はこう書いている。

 

「つまり、変体少女文字(筆者注:丸文字のこと)の語りには収斂し切れない自意識の所在を彼女が感じた瞬間、アイドルとしての彼女は成立不可能になった。そう彼女は感じてしまったのである。」[3]

 

大塚は投身自殺をした岡田有希子について、彼女に押し付けられていた虚像としての「少女性」と、実際の「生身の」彼女のギャップによって自死を選んだとする。そうした「生身の」身体性の喪失が、求められるアイドル像に自らを近付けていくこと、つまりそれが男性性の内面化だとしたら、現在のアイドルシーンにおける「男性目線」とは、このような男性性的なシミュレーションへの欲求を、女性の側からパロディ化することなのではなかろうか。

筆者の私感であるが、「女性だけど同性のアイドルに詳しい」だとか、「グラビアアイドルを見るのが好きだ」というアイドル(豊田を含め)が自らを「私”おっさん”なんです」と言い表すことが多い。ここから分かるのは、彼女たちが男から女へ、という一方的な抑圧の構造の中ではなくむしろ、男/女という性別の境界をブレさせ、男性性をパロディすることによって「アイドル」という存在の原罪(搾取の枠組み)を無効化しようとする試みであり、またアイドルのように「可愛くあること」が女性にとっての自己実現の手立てになってきているということを示している。

第3章 豊田萌絵

前章では、「アイドルシステム」として作用する、男性性によるシミュレーションへの欲求が、アイドルたちによってパロディ化され、むしろ自己実現のために駆動しているとした。ここでは現在の写真を取り巻く状況を概観しつつ、アイドルと写真の関係性について考察する。

写真は絵画と同じように、その発明から暫くは肖像を撮る為に使われた。肖像画では意図的な演出が加えられることも多かったが、しかし写真はより正確に現実を写す。少々脱線にはなるが、写真史の初期における被写体(ここではブルジョワジー)の自我の関係について、以下の文章を見てみよう。

 

「人間には公的にも私的にも、つねにある種の仮面によって人びととの関係を保っているものである。ブルジョワジーが自らに擬していた自我もこうした外面的関係のつくる仮面にほかならなかった。つまり、ブルジョワジープチブルジョワジーは社会的自我を裏切る写真に怒り狂ったのである。」[4]

 

写真という技術が開発された当初、ブルジョワジーの間で肖像写真を撮ることが流行した。多木浩二は当時ジャーナリストであったナダールの回顧録を引用しつつ、現像された肖像写真を見ておののいたり、憤慨するブルジョワジーたちの自我と写真の関係をこう言い表している。当時のブルジョワジー達は脚色や演出が施されていない自画像を見て、そこに写っている「生身の」彼らが受け入れられなかった、ということだろう。

翻って、現代の写真の状況を考えてみよう。先に触れた時代は写真の複製技術が登場した頃であったが、現代ではもはや写真は実際に所有出来るモノとしてではなく、パソコンや端末の画面上に映し出されヴァーチャルなモノとして我々の前に現れる。ヴァーチャルな写真、つまりそれはイメージの表象であり、もはや「写真を見る」ということは一種の心的機能、「まなざす」ということと何ら変わらなくなっている。「まなざす」ことに純化していく、という言い方も出来るだろう。

少し前に、「インスタ映え」なる言葉が流行した。これはSNS上で見栄えが良い写真が撮れるシチュエーションに使う言葉だが、ここには現実をヴァーチャルな空間からまなざす視線が認められる。ジガ・ヴェルトフが「カメラ・アイ」――機械の眼によってこそありのままの世界が見い出せる――を提唱した1920年代からおよそ100年かけて我々の眼が機械になったということの証左である。

こうした写真の機能に関して、アイドル産業は敏感にならざるを得ない。何故ならカメラ(写真)という装置が持つその表象機能と、アイドルという存在の構造(人間⇔記号、イメージ)は相性が良く、そして産業として利潤を生み出すためには、写真を使った諸アイテムを生産販売することが不可欠だからだ。

アイドル写真における価値については別の記事に詳しいが、軽く触れておこう。ベンヤミンの論では、芸術には「展示価値」と「礼拝価値」の二種類の価値があるという。前者が見た目に美しいというものであり、後者は宗教的な儀式に用いられるという価値である。また、ベンヤミンは芸術作品における一回性、<いま-ここ的性質>をアウラと呼び、それは写真技術によって複製されてすり減っていくとした。写真に写る被写体の肖像にアウラや礼拝価値を見出すのだが、その礼拝価値がアイドル産業を支えている。当たり前のことだが、アイドル写真が価値を持つのはアイドルが写っているから、というトートロジーのような言説はこのメカニズムによって駆動している。

 

裏を返せば、アイドル写真はアイドルが写っていれば何でも良い、という乱暴な論がまかり通ってしまう。しかし自らの表象である写真に対して、並々ならぬ情熱を注ぐアイドルもいる。その一人が豊田萌絵だ。

 

「そしてこだわったのが最後のカット。水着姿で砂が付いているあのカットは写真集オタクとしては絶対に撮りたかったカットで、写真集でもラストに持ってきてもらいました。」[5]

 

「―ビーチで撮影している写真がグアムらしくて素敵だなと思います。水着の上にTシャツを着ているというのも……。

そこは私のこだわりで、上に着ていると、脱いでいる途中経過が写真に撮れるじゃないですか。(中略) そのためには着ないと盛り上がらないなあって(笑)。

―男子みたいな目線ですね。」[6]

 

 

写真集発売時のインタビューで豊田はこのように語っているが、引用の後半では前章で指摘した「男性性のパロディ化」が見られる。この「こだわり」がどのように生み出されどのような効果を生み出すのだろうか。まずその彼女の「こだわり」、彼女の写真集に見られる特徴を見ていくことにする。

『moRe』『もえねこ。』『moEmotion』

彼女の一冊目の写真集『moRe』は、グアムで撮影され、夏らしい爽やかなロケーションと水着衣装が眩しい仕上がり。この写真集について別記事で詳しく触れたが、触感的な写真と冒頭と最後のカットの配置が秀逸であった。

『もえねこ。』はタイトル通り「猫」をコンセプトにした写真集。ライブ用に作られた衣装2着に新しい衣装1着を加えた全3着を、それぞれのコンセプトで撮影している。1着目は家猫、2着目は野良猫、3着目はいわゆる「泥棒猫」的なファム・ファタールという設定。それぞれのイメージに沿った形で撮影された写真は、前述したシュミレーションの欲求を女性(アイドル)側が実践したケースであり、また東浩紀の提唱したデータベース消費の実践とも取れる。このデータベース消費については後述する。

2019年発売の『moEmotion』ではトルコでの撮影を行い、イスタンブール市街やカッパドキアのロケーションと本人の表情が楽しめる仕様になっている。こういった「ツーリズム+グラビア」の形式は近年だと2018年の吉岡里帆『so long』や生田絵梨花『インターミッション』など佳作が続いているが、こうした形式の写真集の典型的な構成――滞在のスケジュールを追っていけるような、昼と夜の繰り返しの構成――ではなく、『moRe』の構成――一般的にアイドルの写真集に見られるような、カットの断続――を踏襲しているように感じる。豊田は自身のラジオ番組等で「緩急のある構成にしたかった」[7]という旨の発言をしているが、それぞれの時間帯に割り振られているページ数から言ってもこの構想は実現できていないと見る方が良いだろう。カットの連続による構成からは、写真によってストーリーを語ることの放棄が見られ、むしろ「何が見たいか/見せたいか」という視覚的快楽を重視していると考えられる。

自己の表出にあたって物語を放棄することは、身体を失うということだ。我々は常に変化する生き物であり、自己の変化と時間は切り離せない関係にある(成長であろうが老化であろうが)。アイドルという存在自体が身体性を希薄にすることを求められる状況から、その身体性の希薄さを逆手に取って男性性をパロディ化していると前章で述べたが、豊田の写真集は正にその原理を利用し、自らの表象と別の記号を切り貼りするシミュレーションを行う実験の場となっているのではなかろうか。前述の「ツーリズム+グラビア」の例に挙げた三人が女優であること、つまりアイドルではないこと(生田は乃木坂46所属だがミュージカル女優として活躍している)にも注目したい。

ポストモダン評論から見る『moEmotion』

自己実現の手立てとして男性性をパロディしているのではないか、という指摘を行ったが、パロディという言葉から、筆者はどうしても「シミュラークル」の概念を想起せざるを得ない。シミュラークルとは、哲学者ボードリヤールが提唱した「オリジナルとコピーの中間的な概念」という言葉だ。第一章で俯瞰したように、アイドルという存在から影響を受けてアイドルになった彼女たちがシミュラークル的であることを指摘しておかなければならない。豊田は自身の写真集を「ほぼ同人誌」と形容するが、そこから彼女が今まで見てきたアイドルの写真集がオリジナルと仮定され、自身の写真集をその二次創作(=シミュラークル)とする思考回路が読み取れる。シミュラークル的な本物、という位置に置くとするならば、豊田にとって(そして多くのアイドルやコスプレイヤーなどにとって)写真はアイドル化するための装置であって、本質的にはカメラマンの技能やを問われるものではない。そこに彼女/彼らが写っていることが装置を駆動させるためのコアなのである。

評論家である東浩紀は、ポストモダン的な世界観をデータベース型世界と定義し、その表層には小さな物語が、深層には大きな非物語、データベースがあるとした。こうした世界観の元でエンタメコンテンツ、特にアニメやゲームに関して、表層の物語ではなくデータベースの中の情報を読み取り、それを消費していくこと――これをデータベース消費と名付けた。

東によるノベルゲームの分析では、背景画像とキャラクター画像の組み合わせによって何千何万通りのストーリーやシチュエーションが作り出せることから、消費者の側がゲームの構造やシステムを分析し、二次創作的に別種のゲームを作り上げることが出来ること、そして作品の表層(ドラマ)と深層(システム)への二種類の欲求があることを指摘している。これはアイドル写真にそのまま応用出来る。基本的にアイドル写真の目的は、被写体であるアイドルをどのようなシチュエーションに置くかというシミュレーションに他ならないし、ここで求められるのはウェルメイドな表層のドラマである。そしてそのドラマにおける被写体は、本質的には交換可能なものである。アイドルとロケ地、或いは衣装など、複数の要素の組み合わせからなるアイドル写真は、消費者の――男性性によるシュミレート!――欲望に合わせて設定されたものである。しかしアイドル写真は二次創作に対して”開かれて”いない。それは写真におけるアウラの問題、アイドル写真を存在させる条件である「本人が写っている」ことが駆動しているからだ。むしろアイドル写真は、アイドル本人による二次創作的欲求、例えば先に挙げた『もえねこ。』では「もしも豊田萌絵が猫を演じたら?」というシチュエーションがアイドルの側から設定されている。こうした二次創作的自己表現への欲求とその実現の手段として、アイドル写真は今変貌を遂げつつあるのではなかろうか。

 

豊田は2018年の暮れに行われたインタビューでこう語っている。

 

「ーー(略)ちなみに写真集もお好きなんですよね。今年一番良かったアイドルの写真集は?

 

豊田:発売自体は昨年末なのですが、長濱ねるちゃんの写真集『ここから』(講談社)がめちゃくちゃ刺さりました。アイドルの写真集の良さの基準が私の中にはあって、それは“カメラマンさんとのコミュニケーションがどれだけ写真で表現できているか”なんですよ。どんなに被写体が良くても、カメラマンさんとの相性によって、見る側に何を訴えかけているのかわからない作品になってしまうことが少なくないような気がします。でもねるちゃんの写真集は“カメラの向こうにどんな視線があるか”を想像させるくらいの訴えかける力がある写真しかなくて、強いなって思いました。彼女感とか同級生感とか、妄想力がとても膨らむ写真集でした。こんなこと言うのは気持ち悪いと思うんですけど(笑)。変にオシャレにしようとか、意識高い系の写真じゃなくて、等身大の魅力が出ていたので、好きですね。」[8]

 

「カメラの向こうにどんな視線があるか」という問いは、カメラ=眼という前提、つまり発言の中の「彼女感」「同級生感」は裏を返せばカメラの眼が彼氏やクラスメイトの眼になっている、そしてそれは撮影するカメラマンと被写体の相性、カメラマンが被写体の魅力をどれだけ引き出すか(陳腐な言い方だが)によって左右される。しかしその前提は裏を返せば、どれだけ被写体の側、アイドルの側が自らの表象をコントロールしようとしてもカメラマンというフィルターを通さねばならない。ということである。

「彼女感」「同級生感」を呼び起こす写真とは何だろうか。それは制服や通学の自転車や学校のロケーションが表象として配置され、それが写真に写っているに過ぎないのではなかろうか。ここでカメラマンに求められているのはその表象に最も適した被写体の表情を切り取ることであり、作家性を出すことではない(勿論例外もあるが)。「変にオシャレ」「意識高い系」ではなく「等身大の魅力」が出ていると『ここから』を評価した豊田の意図はこのようなものだろう。カメラは「機械の眼」であってその操作者がいる、というメタ的な視点も豊田の発言から読み取れる。それは勿論豊田が被写体として製作に関わっていることが関連している。しかしその読者との関係性を想起させる写真は、そうした状況をシミュレートしたものであって、先に挙げた、古いアイドルの表象の範疇を出るものではない。

まとめ

豊田萌絵論」と題する本稿では、声優アイドル豊田萌絵の写真集やインタビューでの発言を基にゼロ年代以降のアイドルシーンの特徴、ポストモダン論とアイドル写真について扱ってきた。

最初の章では1980年代から2010年代にかけての大きな変化として、秋元康プロデュースによるアイドルグループの誕生や、それらの影響を受けた2010年代以降のアイドル達を挙げた。第2章では、そういった”最近の”アイドル達が男性性による抑圧ではなく、アイドルという職業/装置を通じて自己実現をしているというアイドル像の変化を紹介した。第3章では豊田萌絵の写真集とインタビューを参照しながら第2章の論証と補完を行った。アイドルという存在の構造を逆手に取ったアイドルの登場と、ポストモダン的状況でのアイドル写真の消費の在り方について示し、最後に豊田萌絵の写真集の分析によって反証した。身体が希薄化し、記号の表象としてヴァーチャルな存在になったアイドルと、表象を語る装置としての写真は”誰が””どこで”撮ったかというデータベース消費の形に還元されてしまい、写真家による表現上の技巧やメッセージ性は削ぎ落とされていった。

アイドル写真における課題とは何だろうか。オタクカルチャーに特徴的な消費の形に合わせたプロダクトとしての写真たちに対して、ただ芸術性を高めろとは言えない。本文中でも触れたように、アイドル写真が自己実現の手段になっていると筆者は考える。自身と自身の記号を表現する手立てとして技法や衣装の選択が行われるアイドル写真が今後増えていくことを祈ってやまない。

参考資料

東浩紀動物化するポストモダン オタクから見た日本社会』、講談社、2001年。

大塚英志『物語消費論 「ビックリマン」の神話学』、新曜社、1989年。

大塚英志『「おたく」の精神史 一九八○年代論』、朝日新聞社、2007年。

多木浩二『眼の隠喩 視線の政治学』、青土社、1982年。

豊田萌絵『moRe』、主婦の友社、2017年。

豊田萌絵『もえねこ。』、スタイルキューブ、2018年。

豊田萌絵『moEmotion』、主婦の友社、2019年。

Realsound「豊田萌絵が振り返る、2018年のアイドルシーン 「生駒ちゃんは乃木坂の最初期を支えた功労者」」、<https://realsound.jp/2018/12/post-300227.html>、 2019年7月3日閲覧。

 

[1] 大塚英志『「おたく」の精神史 一九八○年代論』、p110。

[2] 同上、p111。

[3] 同上、p117。

[4] 多木浩二『眼の隠喩 視線の政治学』、p168。

[5]声優グランプリ』2017年8月号、主婦の友社

[6]声優グランプリ』2017年9月号、主婦の友社

[7]豊田萌絵ルームシェアしましょ♡』、2019年7月15日放送回。

[8] Realsound「豊田萌絵が振り返る、2018年のアイドルシーン 「生駒ちゃんは乃木坂の最初期を支えた功労者」」、<https://realsound.jp/2018/12/post-300227.html>、 2019年7月3日閲覧。