火気厳禁のハングル畑でつかまえて

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半地下のオタクがK-POPを語るブログ

20230102/NewJeans「Ditto」を読む

読者の皆様、あけましておめでとうございます。2023年も昨年以上に邁進して参ります。

さて(ここから文体変更)、2022年の暮れにNewJeansがシングル『OMG』からの先行リリース曲として「Ditto」を発表した。少々今更感もあるが、「Ditto」のMVを見て何をどう思ったか、ここに書き残しておく。

 

「Ditto」MVを分解する

ひとまず、「Ditto」のMVを丁寧に見ていこう。side A, Bと同じ楽曲ではあるが2種類のmvが用意され、Aパートで提示されたものがBパートで深掘りされる構成になっている。ホラーやファンタジーの要素も盛り込んだ演出が目を引くが、あらすじは主人公の반희수(バン・ヒス)が部屋に眠っていたビデオを再生し、学生時代の思い出を振り返るといったものだ。

 

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MVの公開の後に開設されたヒスのYoutubeチャンネルを見ると、時代設定は1998年の冬となっている。

 

 
 
 
 
 
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side A,B通して登場するキャラクターはヒスとNewJeansの5人、そしてヒスを見つめる男子生徒と鹿の計7人と1匹。

画面の縦横比率が変わることで誰が、どの時点で見ている映像なのかが暗示される演出が全編に渡って施されている。side Aではヒスが過ごした学生時代を振り返る映像になっているが、雪原で鹿と見つめ合うシーン(4:17~)の後実はNewJeansのメンバーはヒスにしか見えていなかったことが明らかになる。続くside Bではヒスの姿を中心に描き、彼女がカメラを捨てて再度鹿と出会うところまで過去の描写、現代のヒスがビデオを見ていると部屋にビデオに映っていたNewJeansのメンバーが入ってくるところで終わる。

この楽曲とMVはNewJeansとファンダムの関係性を描いたものだという。それは主人公の名前「バンヒス」が連音化するとファンダムの名称「バニーズ」になることからも明らかだ。しかしそれ以上に凝った演出が施され、メッセージが込められているのもまた事実である。ここからは、この2本のMVの中で印象に残った2つの点を取り上げてそれぞれの解釈を試みる。

 

ヒスとビデオカメラ

まずはヒスとカメラについて考えていきたい。ヒスは、side Aではずっとカメラを構えてNewJeansを撮っている。だから彼女の顔、いや厳密に言うと彼女の瞳はハンディカムのモニターに隠されて映らない。

 

カメラを構えるヒス

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購買のシーン、部室(図書室?)のシーンで微妙に顔が見えるが、それも遠くからの画角であったり髪に隠れていたりして、はっきり彼女の瞳が映るのは冒頭水飲み場のシーン(1:29~)と雪原のシーン(4:21~)の2つだ。

 

眠るヒス

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水飲み場のヒス

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一方、続くside Bではそのカメラを捨ててしまう。ヒスの顔(瞳)が映るシーンは男子生徒と目が合うシーン(0:34~)、ハンディカムを捨てた後のシーン(2:28~)、再度廊下で鹿と遭遇するシーン(2:55~)の3箇所。

 

side Bのヒス抜粋

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主人公である彼女の顔がはっきりと映らないのは、これがあくまでNewJeansのMVだから、ということ以外にも意図があるように思う。side Aではむしろハンディカムを構える彼女の姿を印象的に映し出し、最後のネタバラシをより強烈なものにしている。

逆に、このMVの中ではっきりと顔が写るのは、NewJeansのメンバーと男子生徒、side Bで教室にいるクラスメイトだ。シーンによりけりではあるが、顔が写っているということはヒスにカメラを向けられているということでもある。

教室でカメラを向けているシーンでヒスは、クラスメイトから奇異の目線を向けられていることに気付いていない。それは彼女がカメラのモニター越しにメンバーを見ているからであり、クラスメイトは眼中に無いからだ。しかし、ニーチェの言葉を引くまでもなく、本来見るという行為は見られることの裏返しである。我々がヒスの瞳を見ることが出来ないのは、ヒスと我々(=クラスメイト)の間に視線の交差が発生していないからだ。

ヒスはモニターを覗き込むことで他者とのコミュニケーションを遮断していたが、カメラを置いて水を飲んだ時に事故的に他者の視線に出会ってしまう。ベランダから彼に見られて逃げ、体育館ではカメラの向こうにまた彼の目線を見つけて戸惑う。しかし登校中の彼を見つけたヒスは恐る恐るカメラの眼を向け、見つめ返した。最終的にヒスはカメラを捨て、他者から「見られる」ことを受け入れたのではないだろうか。

 

side Bの途中からヒスがNewJeansを撮った映像はグリッチノイズが入ったり砂嵐になってしまう。ヒスのYoutubeチャンネルを見るとカメラを捨てる前(体育館のシーン)からノイズが入るようにはなっているので、side Bでカメラを捨てたこととは関係がないと推測される。動画の説明欄を見ると「なぜか映像が乱れる」「音声が途切れる」といった旨のことが書いてあり、彼女は自分が見ているものが虚構だと気付いたからこそカメラを捨てたのかもしれない。

 

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駐車場で彼女がギプスを見るとメンバーからのメッセージが消えていることから、我々に見えている街頭の下のメンバーはヒスには見えていないと推測される。

 

ギプスの寄せ書きが消えているシーン(side B)

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ヒスはカメラがないとNewJeansを見ることが出来ない。それは我々も同じである。基本的に我々は、カメラを通してしかNewJeansを見ることが出来ない。しかしヒスはカメラを通して見ている彼女たちも虚構だと気付いてしまった。彼女が現実世界=他者とのコミュニケーションにこそリアルを見出したのだとするなら、side Bで男子生徒と並んで歩く姿にも納得がいく。

 

「Ditto」はなぜ"エモい"のか?

この2本のMVを見た時、多くの人が感傷的な印象を抱いたことと思う。我々はあくまでヒスが撮った友達(NewJeansのメンバー)の映像、というテイの最近撮られた映像を見ているだけなのに、何故我々はノスタルジーを刺激されてしまうのだろうか。

批評家・思想家でカルチュラル・スタディーズの礎を築いた先人ロラン・バルトは、写真というメディアの本質(のようなもの)を「かつて-そこに-あった」という言葉で表現した。撮られた写真を見る時、そこに写っているものは過去に必ず存在したものであり、我々が写真を見る時は現在と過去の時間が2重に流れることとなる。現在は画像加工技術の向上によりこの理論は否定される可能性も持っているが、我々の知覚-認知の様式としては、バルトの理論はまだ力を持っていると感じる。

MVのリアクション動画におけるミンジの以下の発言は、バルトの思想を集約したものだと言える。撮影された本人ですら偽の記憶があるように感じてしまうほどに、写真/ビデオの持つ「かつて-そこに-あった」性質は強い。

 

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(出典 : NewJeans (뉴진스) 'Ditto' MV Reaction - YouTube)

 

またside Bの最後、過去のビデオを再生していると、ビデオの中のヒスを含めた6人が現在の部屋に入ってくる(ように見える)シーンも、写真/ビデオというメディアの価値を端的に表現している。

芸術論の古典「複製技術時代の芸術作品」の中でベンヤミンは、芸術作品の価値を美術館などでの展示によって見出される「展示価値」、そして教会や「礼拝価値」の2つに分けて捉えた。複製技術によって芸術作品における<いま-ここ>的性質(アウラ)が失われていく中で、写真には礼拝価値としてのアウラが宿っていると彼は言う。

 

写真においては展示価値が礼拝価値を全戦線において押しのけはじめる。しかし礼拝価値は、無抵抗に退却するわけではない。それは最後の砦に逃げ込む。そしてその砦とは、人間の顔貌である。(中略)遠くにいる、あるいはいま故人となった、愛する人びとの追憶を礼拝することに、イメージの礼拝価値は最後の避難所を見出す。人間の顔のつかの間の表情となって、アウラが初期の写真から、これを最後と合図を送る。

 

(ヴァルター・ベンヤミンベンヤミン・コレクション① 近代の意味』、浅井健二郎編訳、1995年、p599)

 

どんなに時間が経って心が離れようとも、曲やビデオに触れて当時のことを思い出したり、メンバーを想うこと――――それこそが、アイドルがメディアに載って流通する時に生まれる価値だ。その良し悪しは別として、アイドル産業はこの礼拝価値に値段をつけて売っているし、我々はそれを買っている。

「Ditto」MVのあらすじを物凄く大雑把にまとめると、2022年のヒスが1998年の思い出=NewJeansを追憶する、といったものだ。このMVは、デジタルと言えども荒い画質のハンディカムで学生生活の一瞬を切り取り、そしてその被写体がアイドルであるということで、「かつて-そこに-あった」という写真/ビデオの特性を活かしつつベンヤミンの言う礼拝価値を持たせ、「今そこにいるアイドル」と「かつてそこにいた我々」を同時に想起させる。MVの中でヒスは埃を被ったビデオを再生し、再び当時のNewJeansに出会う。そう、写真やビデオは、その対象を”再び生かす”ことが出来るメディアなのだ。裏返せば、写真やビデオは死を待つメディアだとも言える。「Ditto」のビデオに漂う不穏さは、現在撮られたと分かっているにも関わらず生じる「被写体が既に故人になっているかもしれない」という緊張感に由来するのかもしれない。

 

おわりに

NewJeans「Ditto」のMVを自分なりに読解してみた。思春期特有のセンシティブな自意識や自分の在り方への葛藤、そして他者と関係を持つことへの恐怖や戸惑いを抱えながら、少しずつ人間的に成長していくヒスの姿を描いたこのMVは、まさしく青春モノだと言える。そして我々は、青春の瞬きが消えてしまうことを知っている。だからこそ青春は眩しいし、来るべき青春の終わりが恐ろしいのだ。

グループのクリエイションのトーンの中でフレッシュネスとノスタルジーを両立して表現しているのも驚くべきポイントだ。1stEP収録曲のMVでは明るい陽光の元で軽やかに踊る彼女たちのハツラツとした雰囲気が技巧と資本力重視のK-POPシーンにおいて斬新に見えたわけだが、初めてのカムバックで180度回転した感性のクリエイションを提示しているのが非常に面白い。

本編では触れられなかったが、何故鹿のモチーフが用いられているのか? 実在しないNewJeansは何を意味しているのか? まだまだ考える余地は沢山ある。多様な読みを誘発することも、この作品の素晴らしい点だと言える。

この記事がアップされる頃には「Ditto」収録のシングル『OMG』がリリースされている。そちらのMVも合わせてよりこの物語は発展していくわけだが、今回はこの辺で筆を置く。

 

参考資料

 

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