火気厳禁のハングル畑でつかまえて

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半地下のオタクがK-POPを語るブログ

20221219/itzy「Cheshire」と推すことの倫理

はじめに

itzy「「Cheshire」を初めて聴いた時、言いようのない居心地の悪さを感じたのは筆者だけだろうか。曲調はかなり好きな部類に入るのだが、しかし我々を喝破し、励ましてくれるitzyはもう、そこにいないように感じられたのだ。

 

itzyについて

itzyは2019年2月にJYPエンターテインメントからデビューした5人組ガールズグループだ。執筆時点で音楽番組での1位が計42回、毎年年末に発表される各種アワードでは計11個の賞を獲得している。同じ事務所から2022年に後輩ガールズグループNMIXXがデビューしていることも踏まえ、itzyはもう磐石な中堅グループと言っていいだろう。

大胆で挑発的な所謂「ガールクラッシュ」のコンセプトが彼女たちの持ち味だ。デビュー曲の「DALLA DALLA」は、「私はあなたとは違うんだから口出ししないで」「私は私が好き」と強いメッセージを歌いつつ、タイトルにもなっている「달라달라(=違う違う)」のリフレインがキャッチーな1曲だ。

 

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続く「ICY」「Not Shy」なども同様に、因習的な価値観に対する反発心や恋愛においても主体的であろうとする心情を表現している。しかし新曲「Cheshire」からは、彼女らの持ち味である強くて明るいガールズパワーの要素はあまり感じられない。率直に言うと、この曲に少し不気味さすら感じてしまうーーまるでチェシャ猫の微笑みのように。

まだMVを見ていない人は日本語字幕をオンにして「Cheshire」のMVを観て欲しい。

 

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テレビ番組風のセットやグリーンバックとCGを使った演出は捉えどころのない『不思議の国のアリス』のチェシャ猫を着想源としているのだろうが、それはむしろ彼女たちが作られたイメージの中の存在であることを際立たせる。そんな彼女たちが「見えるもの、そのまま私を信じて」と発することに、筆者はグロテスクさを感じるのだ。彼女たちが私たちに見せているものは彼女たち自身ではない。乱暴な言い方だが、明け透けな嘘を信じろと言われているような居心地の悪さがある。

 

信じる=推す?

「見えるものをそのまま信じる」とはどういうことなのだろうか。我々はほとんど視覚に頼って生きている。例えば道を渡る時に左右を確認する。階段があれば登るし、階数を確認してエレベーターのボタンを押す。見える、ということは、そこに何かがある、ということだ。裏返せば、見えているものはそこに有る、と我々が信じているのだとも言える。

しかし、アイドルがそこにいて、我々の目に見えている以上、彼女たちを信じて推す、ということに何の疑問も無いではないか。この章では、認知心理学の「プロジェクション」という概念を通して、我々オタクが見ているものは何なのかを考えてみる。

 

プロジェクション

久保(川合)南海子『「推し」の科学 プロジェクション・サイエンスとは何か』は、「推し」にまつわるエピソードを通じて認知科学におけるプロジェクションの概念を解説した一冊だ。プロジェクションについて説明している部分を以下に引用する。

 

人間は、自分をとりまく物理世界から入力された情報を受けとり、それを処理して、表象を作りだします。それは人間にとっての意味となります。けれどこのような情報の受容と表象の構成は、人間のこころの働きの半分でしかありません。もう半分では、作り出した表象を物理世界に映しだし、自分で意味づけた世界の中でさまざまな活動をしているのです。この一連のこころの働きが、プロジェクションです。

 

(久保(川合)南海子『「推し」の科学 プロジェクション・サイエンスとは何か』、p34)

 

有名な「幽霊の正体見たり枯れ尾花」の句が、分かりやすいプロジェクションの例だ。現実には存在しないはずの幽霊という表象を自分の中に持っていたからこそ、暗がりで枯れた草木の影を幽霊だと勘違いしてしまう。

これは我々オタクの行動や思考様式にも深く関わっている。例えばメンバーカラー。その色を見かけるだけで推しを連想してしまう。例えば聖地巡礼。普段何気なく歩いている街並みでも、そこに推しがいたという事実が現実世界の認識を変える。プロジェクションという心的機能は、我々オタクの活動領域のほとんど全てをカバーしている。

そしてそれは、我々がアイドルを眼差す時にも起きている。鶏が先か卵が先か、その推しのイメージを推し本人に投影し、推しがその推しらしさを全うすればするほど、その表象が更に我々に強く刷り込まれていく。

 

「リアル」なアイドル

我々はアイドルに夢を見ているし、アイドルは我々に夢を見せてくれる。パフォーマンスにある種の説得力、「リアル」さが宿るからこそ、我々は彼ら彼女らが魅せる夢を現実だと信じ、”推す”という行為に至る。

「Cheshire」を聴いた時に筆者が感じた違和感や居心地の悪さは、今までのitzyに投影していた像――「進歩的」「挑発的」「ガールクラッシュ」などなど――が、今回の新曲の歌詞や曲調と異なっている、ということが原因だと言える。先入観に囚われた見方をしていたからだ、と言ってしまってもいいかもしれない。しかしその先入観自体も、プロジェクションの理論に則って言えば彼女たち(とPDチーム)がこれまで作り出してきた自らの表象をリスナーの側が身体化した結果とも言える。

また、「Cheshire」の違和感、不気味さは、アイドルという産業そのものをアイドル本人が代弁しているような気がするからだ。楽曲の本当の主題が何であれ、「見られる」職業であるアイドルがこのように歌うこと自体に忌避感がある。そして、「見えるものだけを信じて」という言葉は、「見せるものだけを信じて」とも言い換えられる。その言葉を信じていいのだろうか? 資本主義に絡め取られていることに気付かないまま、あるいはそれに気付いていないフリをしながら、それでも彼女たちを信じて推すことが?

 

「Cheshire」は悲鳴か、福音か

「見えるもの、そのまま私を信じて」。甘美な誘いだが、ハードな現実世界での出来事を考えると筆者は首を縦に振ることが出来ない。

 

アイドルと労働

君が 想う そのままのこと

歌う 誰か 見つけても

すぐに恋に落ちてはダメさ

「お仕事でやってるだけかもよ」

 

(大槻ケンヂと絶望少女達「りんごもぎれビーム!」)

 

アイドルが見せる幻影。それこそがアイドルの魅力だ。それは間違いない。ここで強調しておきたいのは、筆者は”推す”という行為を批判したい訳ではない、ということだ。プロジェクションは人間にとって不可欠な心の機能であり、それは国家や貨幣という実体のないものが社会を構成していることを考えてみればよく分かるだろう。

しかし彼女たちが言うように、ただ見えるものをそのまま信じていいのだろうか。綺羅びやかな舞台とその裏の隠れた努力だけが彼女たちの労働であり、人生なのだろうか。先日、ドラマ化もされたレンタルなんもしない人のTwitterアカウントがこんなツイートをしていた。

 

f:id:kaki_genkin:20221218225820j:image

 

当該ツイートは現在削除されているようだが、DMの内容は事務所スタッフからの暴言や過酷な労働環境から来る精神病の症状についてのものだった。事務所スタッフも自己責任論を振りかざす連中もありえないと思う。

2022年に公になった、OMEGA XやLOONAを巡る問題も同様である。我々ファンが知らない/見られないところでアイドルたちが搾取されているかもしれないということを忘れてはいけない。

 

自我と虚構

前述の通り、アイドルと我々オタクはイメージをフィードバックし合っている。アイドルにとっての「見せたい私」が本当の、本心からの本物の本人なのだろうか。ファンに向かって暴言を吐くのが本当の姿? 我々自身がそうであるように、アイドルもまた、本人がどういった存在なのかという問いに明確に答えることなど出来ない。そして、アイドルという存在そのものが見たい/見せたいという主体的な欲望が交差する場であるにも関わらず、「見せたものをそのまま信じて」というフレーズによって彼女たちの存在が虚構に押し込められてしまう。我々オタク=消費者はそれを信じるしかなく、そしてその信じたイメージを再度彼女たちに投射してしまうのだ。

 

「でも何かを演じたら――

フェアじゃないけどそれを見て人は判断する」

 

(『アトランタ』S4 : ep6)

 

あなたの推しが「カメラがないところでしか本当の自分でいられない」と言っていたとして、あなたはどう思うだろうか。悲しい? それとも納得する? 我々オタクはアイドルに対して、ライブ中に目が合った瞬間、自分のコメントを読んでくれている間、アルバムにサインしながらお話している時間だけは本当の姿であって欲しいと思っているのではないだろうか? 少なくとも筆者はそう思っているし、そのことがどれだけ矛盾を孕んでいるかも理解しているつもりだ。虚構と現実の境目にいる存在に対する、虚構のままでいて欲しい気持ちと私のいる現実にいて欲しい気持ち。この引き裂かれた感情が、私を苦しめる。

 

おわりに

itzyの今までの活動や最新作「Cheshire」の歌詞の分析を通して、筆者がこの楽曲に抱いた違和感の原因を探ってきた。

視覚による認知の特性から、「見えるものはそこにある」と信じ込んでしまうし、見えているもののみを信じることは非常に危ういことでもある。それはアイドルに対しても同じで、ステージ上で見せるその魅力自体が我々が抱いている表象を投影したものであるにも関わらず、アイドル本人の生来のものだと思ってしまう。この誤認はプロジェクションという心的機能によるものである。

しかし、アイドル本人が発する「見えるものだけを信じて」という言葉は、現実のアイドルを取り巻く労働環境や人格消費の問題を掻き消すように響く。アイドルを巡る、市場原理と人間の認知能力、そして欲望という糸が絡まったまま宙に浮かんでいる。産業体としてのアイドルの存在と、それを欲望するオタク。

これらの複雑な問題について、それぞれで折り合いをつけていくしかないのだろうか――、ここまで書いて、また「Cheshire」のMVを流す。画面の向こうのメンバーはいたずらっぽく笑って、私にこう言うのだ。「Why so serious?」

 

 

参考資料

 

 

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