火気厳禁のハングル畑でつかまえて

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半地下のオタクがK-POPを語るブログ

20181223/『moRe』

はじめに

今回は豊田萌絵写真集『moRe』を通して、写真表現における「神話」を創造することに関して論じる。

豊田萌絵と彼女のアイドル観

まず、豊田萌絵という人物について軽く紹介しよう。彼女は2012年デビューの声優であり、2013年にStylipSというユニットでいわゆるアイドルのような活動を開始する。2015年から同グループの伊藤美来と共にPyxisとしても活動している。

彼女の特徴として生粋のアイドルファンだということが挙げられる。80年代アイドル歌謡から、ハロー!プロジェクト、AKBグループ、坂道グループ等年代問わず全てのアイドルについて豊富な知識を持ち、単独番組『豊田萌絵のアイドル畑でつかまえて』というアイドルについてのラジオ番組を持つほどである。

そんな彼女が2017年に出した写真集『moRe』は声優写真集としてはセンセーショナルな反応を呼んだ。というのも、声優写真集というのは通例肌の露出が抑えられているものが多かった(勿論例外もある)。『moRe』は八割方水着の衣装で構成され、平たく言えば”攻めている”。これは勿論、オーバーグラウンドな、一般的に認知されているアイドル、オリコンチャートに乗るアイドルがそうするようにした、というだけのことだった。筆者の考察では、赤いニットの衣装は白石麻衣『パスポート』のオマージュである。

むしろ『moRe』の特徴は、豊田の徹底したセルフプロデュースにある。彼女は発売時の雑誌インタビューでこう語っている。

 

「写真集とはこうあるべきと私が考えている要素のひとつとして、水着はマストなんです。そこに『声優なのに水着』とかは関係なく、作品作りとして挑んでいます。」

 

(声優グランプリ2017年8月号より引用)

 

作品という言葉を辞書で引いてみると、「製作品」だとか「芸術的活動による製作物」と出てくる。ここで豊田が言う「作品」とは恐らく「自身が丹精込めて作ったモノ」ということであって、実際彼女はページ構成や掲載カットの選択など多くの箇所に関わっている。そのセルフプロデュースする姿勢が、どのような効果を写真集にもたらすのか? 続く二つの章で考察していく。

触覚的な写真

『moRe』の特徴として挙げられるのが、「写真における触覚」である。冒頭浜辺のカットでは非常に精緻に水面の揺れが写されているし、毛羽立った布地やレースを使った衣装、最後のカットでは濡れた髪だとか腿や身体に付く砂など、読者に触覚的印象を与える写真が多い。

小倉孝誠『<女らしさ>の文化史 性・モード・風俗』によると、19世紀ヨーロッパでは社会的に男女が見る/見られるの役割が明確に分かれていたという。この男性から女性への視線ということについてフロイトは、「見ることは、触れることから導きだされた」と言う。

豊田は勿論女性であり、主なファンは男性であって、『moRe』という写真集もこの視線の原理から逃れられない。しかし豊田はその原理を弄んでいるように取れる。再度彼女のインタビューを引用する。

 

「そしてこだわったのが最後のカット。水着姿で砂が付いているあのカットは写真集オタクとしては絶対に撮りたかったカットで、写真集でもラストに持ってきてもらいました。」

(声優グランプリ2017年8月号より引用)

 

「―ビーチで撮影している写真がグアムらしくて素敵だなと思います。水着の上にTシャツを着ているというのも……。

そこは私のこだわりで、上に着ていると、脱いでいる途中経過が写真に撮れるじゃないですか。(中略) そのためには着ないと盛り上がらないなあって(笑)。

―男子みたいな目線ですね。」

(声優グランプリ2017年9月号より引用)

 

この発言から読めることは、豊田がこの視線の原理を理解しており、それを逆手に取っていること、女性が持つ男性性の視点、或いは、男性から女性への視点を俯瞰で見るという視点のどちらかが(もしくは両方が)彼女のセルフプロデュースの中に入り込んでいる事がわかる。読者は演出された触覚的印象をそのまま受け取ることしか出来ない。そしてこの作られたイメージの受容は、ロラン・バルトの「神話」とつながる。

神話創造

バルトが主張した神話という概念は、何かのイデオロギーの下で作られた、任意の文化に対して利益的となるストーリーの解釈の総体を指す。バルトは『神話作用』の中で、神話は意味と形式の両方の形を取るとし、イデオロギーが設定した「自然」に則って歴史や文化を語るものが神話であるとした。『moRe』を読むだけでは、豊田の作り出した「豊田萌絵」像を受け取ることしか出来ないが、読者は普段の、生きている彼女とそれを峻別して楽しむだろう。この差異を受け入れることが、アイドル写真に敷衍するゲーム性の現れである。自らに関係する言説(=神話)を自ら作り出すことと、その言説と実際の人物とのブレ――――、ここにアイドルとファンを巡る一種の力学、政治性があると筆者は考える。

先で引用したインタビューでも少し言及されているが、この写真集ではカットの構成が物語的であり、なおかつそれは組写真的でもある。以前何かの写真集のレビューで「カットの流れがバラバラでテーマが散逸している」というようなことが書かれているのを見たが、アイドルの写真集に求められるのはまさしく物語であり、没入出来る世界観を提示しなければ駄作ということになってしまうことの証左だろう。

『moRe』は夕景の浜辺のカットから始まり、昼の浜辺、茂る緑と歩道、室内、夜の街路などを経て最初の浜辺に戻ってくる。衣装は全10着で、最初と最後はやはり同じだ。この構成からまず受け取った印象は、この作品としての豊田萌絵は彼岸にいて、読者が此岸からそれを見るという構図である。我々はこの写真集において、海を越えなければ彼女に出会えないことが彼女の表情と共に暗示され、しかしながらその肢体や水面を「見る」ことによって魅了されてしまう。「見る」ことへの欲望を喚起させられてしまう。さながらバルコニーのジュリエットと逢瀬するロミオのように。或いは、窃視のパラノイアに罹患したかのように。

衣装という点において言うと、この写真集の中でビビットな色のものとそうでないものの配置の構図も意識されていることが読み取れる。冒頭では太陽に照らされる白いビキニとベージュのレース素材のワンピースという色の強弱が交互に並び、その後も黒いレースと白いレース、ピンクの水着と生い茂る緑の自然、という対比の構図が続いていく。

こうした触覚と視覚の快楽を以て描かれるストーリーは、多くのアイドルが今まで演じてきたような読者である「あなた」とのデートであったり、交際の暗示であったりする。豊田がストーリー性に拘るのも、ファンによって追体験される写真というある種の伝統に則り、なおかつその伝統を自分で纏うこと、それが彼女のアイドルになる/アイドルであり続けるという欲求の昇華であり、多くの領域でのセルフプロデュースに繋がっている。つまりアイドルがアイドルである理由は、アイドルであり続けようという欲望と、アイドルであるという自己規定にある。

まとめ

ここまで、豊田萌絵『moRe』を題材としながら、「視線」の問題やアイドル自身によるアイドルの表象について論じてきた。今回はアイドル写真に想定される男性→女性という見方のみを扱い、アイドルによるアイドルの表象、アイドルを演じることについて論じたが、今現在アイドルに関する写真表現で顕在化している女性ファン向けのメイクやスタジオセット、主に双木昭夫が代表的な「ゆめかわいい」と呼ばれるようなファンシーでメルヘンチックな世界観から、女性→女性という視点の原理について考察を深めたい。

参考資料

声優グランプリ』2017年8月号、主婦の友社

声優グランプリ』2017年9月号、主婦の友社

豊田萌絵『moRe』、主婦の友社、2017年。

白石麻衣『パスポート』、講談社、2017年。

小倉孝誠『<女らしさ>の文化史 性・モード・風俗』、中央公論新社、2006年。

ロラン・バルト『神話作用』、篠沢秀夫訳、現代思潮社、1996年。

ピーター・P・トリフォナス『バルトと記号の帝国』、志渡岡理恵訳、岩波書店、2008年。